第一章
ブルーのゼリーがガラスの器の中でプルルンと揺れる。
「皆さん、これを見てどう思います? ワッ、美味しそう! とは思わないですよね?」
緑川ユキは、ゆっくりと生徒達を見回し、悠然と微笑んだ。
「青いバラなら神秘的ですが、食べ物は青いと美味しそうに見えないんです。可哀そうでしょ。でも、ちょっと手を加えてみると……」
冷蔵庫から、乳白色のガラスの器に盛り付けた同じゼリーを取り出す。縁がヒラヒラと波打った温かい印象の器だ。百合子先生の代理でオフィス主催の「テーブル・コーディネート入門」の講義をしている。今日の生徒は六人、皆、生活に余裕のある奥様達だ。
「ね、器を替えるだけでも、印象がまるで違ってくるでしょう。さらにこうすると」
ゼリーの周りに細かく切ったキウイとオレンジを散らし、エスプーマで泡状にしたホワイトチョコのクリームをフワッとのせる。地味なゼリーが活き活きと華やぎ出す。それを水色のリネンのランチョンマットの上に置き、サクラの花びらをちょっと散らす。ウワァと生徒達の歓声が上がる。
「さらに、もう一捻りしてみましょう」
ワイングラスを出して、最初のゼリーをグシャグシャと崩して入れる。生徒達がざわめく。狙い通りだ。落ち着き払って、崩したゼリーの上にイチゴ、ブルーベリー、クランベリーを散らし、レモンのシャーベットをそっとのせる。ミントの葉を刺して、こちらは粉砂糖を振り掛けた濃紺色のお皿に置く。ガラリと雰囲気が変わって大人のドルチェの出来上がりだ。
「工夫一つで、テーブルは煌き出し料理は格上のものに変身します。センスもアイディアも勉強も必要ですが、やりがいはあります」
拍手が沸き起こる。
「質問があったら、遠慮なく聞いてくださいね」
エレガントに見える角度ですっと立って、生徒達の熱い眼差しを受け止める。姿勢のよさには自信がある。セールの時に大奮発して買ったセリーヌのパンツがよく似合っているはずだ。彼女達には田中百合子門下の一番弟子、かっこいい実力者に見えていることだろう。
いつかフードスタイリスト・緑川ユキの名前を不動のものにする。まだまだ道は遠いけれど、コツコツ積み上げてようやくここまではきた。
でも、現実はこれよねぇ。
ユキはパートのオバちゃん店員が二十パーセント引きのシールを貼ったばかりの唐揚げパックをすかさず手に取り苦笑した。どう見てもかっこいい実力者じゃないし、大人のドルチェもセリーヌも無縁の世界だ。
講義を終え、教室の後片付けをし、百合子先生が明日使う撮影用食材を揃え、オフィスの掃除を済ませた頃には大分遅くなっていた。クタクタだが、クタクタなんて言っている余裕はない。混んだ電車に飛び乗り、体に鞭打ち、駅前のスーパーの総菜売り場に寄った。お米は先に帰宅している夫の建が研いでいるはずだ。手抜きだけれど今晩のおかずは、この唐揚げと昨晩の残りの茄子の煮しめ、あとはサラダにしよう。唐揚げは息子の旬の好物だし。もう一品、お味噌汁でも欲しいが、ちょっと面倒。取り敢えずトマトとレモンを買い足せば夕飯はなんとかなる。瞬時にメニューを組み立て、野菜売り場に向かう。
どこも同じだろうが、働く主婦の日常は気取ってなんかいられない。生活臭をどっぷり引きずりながら走り続けるのみだ。一日、立ちっぱなしで腰が痛いが、夕飯を食卓に並べるまでもうひと踏ん張り。いやいや、その後、洗濯機を回さなくちゃいけないし、明日の仕事の準備もある。
ズンと気が重くなるがそれは後で考えよう。旬のことも心配だがそれも今は考えない。すばやくトマトとレモンを籠に入れて、駆け足でレジの列に並ぶ。こんな実態を教室の優雅な生徒さん達は、想像すら出来ないに違いない。